「枯れる」と「腐る」の違い

以前,NHKで興味深い内容の番組をみた.それは,農薬を一切使わないで栽培したりんご農家,木村さんについてであった.一般に,りんごは繊細な果物で,農薬を使わず栽培するのは不可能と言われているらしい.木村さんが農薬使用を止めてから7年間もの間,リンゴは実らず,害虫や病気でリンゴの木々は苦しんだという.そして,8年が経ったある日,リンゴが実ったのだった.
 
無農薬で,本来の自然の姿に戻ったリンゴは害虫や病気で壊滅的な被害を受けることがなくなった.害虫を食べる昆虫が住み付くなど自然環境のバランスが取れるようになったからのようだ.リンゴの木自体の免疫力も強くなったのだろうか.
 
そのリンゴが持つ特徴で一番驚いたのは,放置しておいても「腐らない」ということである.一般に果物など生物を放置しておくと腐ってしまうが,木村さんのリンゴは腐らず,ドライフルーツのように萎れて「枯れていく」のである.そんなことがあるだろうかと思ったが,良く考えてみると,人間を含めて,生命としては,とても自然なことだと思えてきたのだった.生命が持つべき本来の姿を現しているように思えた.
 
「腐る」というのは,細菌が繁殖し,「もの」が発酵した結果生ずる現象である.細菌という外部の要因が働いて起きる結果なので,「もの」は寿命を全うしたとは言えない.もし「もの」自体の免疫力(生命力)が強く,細菌が繁殖しづらい状態であれば,発酵が起こりにくいので腐らないのだろう.その場合は,時間とともに細胞の老化現象は進むので「枯れる」のである.「もの」を構成する細胞の寿命は決められているので,「枯れる」という現象は自然な現象である.
 
このロジックは人間社会についてもあてはまるのではないだろうか.
私たちの社会には,各個人の資質とは無関係に「こうあるべきだ」という社会のプレッシャーが存在する.各個人の資質を無視して,組織に順応させようというプレッシャーが存在する.これは,人工的に求めるものへと作り変えていくという意味で,農薬のようなものだ.人は皆,そのプレッシャーに答えようとして,どこか無理をしながらも農薬漬けの人生になり,しまいにそれなしには生きていけなくなる.そして過剰の農薬で植物がだめになるように,人間もだめになったり,また一方で,農薬から脱却しようとすれば,木村さんのリンゴが経験したように,激しい禁断症状に苦しむようになるのだ.
 
木村さんのリンゴが農薬の禁断症状を抜け出すのには7年間かかった.私たちが,社会からのプレッシャーという農薬の禁断症状から抜け出し,本来各自が持っている資質に基づいて生られるようになるには何年かかるのだろうか.
 
木村さんが言っていた言葉で印象的だったのは,「植物は満身創痍になりながらも,頑張って生きている」ということだ.農薬に頼らず,本来持っている生命力を頼りに生きていこうとしたら満身創痍になる.それでもあきらめずに,頑張って生きることによって,最終的には腐らない命を全うできるのではないだろうか.
 
充実した人生とは,社会の評価とは関係なく,自分の中に持っている「何か」を探し出すこと,それを生業とすることではないだろうか.そして何かを達成した後で自然に枯れていくのだ.これは命あるものの本来あるべき姿で,とても美しいものだと思う.