観察対象としての3歳児

私には3歳になる姪っ子がいる.半年ごとに東京の実家へ帰っるのだが,毎回,彼女の成長の具合には目を見張る.0歳のときは,人間というよりは不思議な生き物だった.動くことも話すこともできない.泣き,笑い,食べ,排泄し,寝るだけだった.しかし,3年後をみるとどうだ.動き回り,話しかけ,様子をうかがい,だだをこね,好物のイチゴを要求する.

ジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau)が「エミール」という著作で,子供を見立てて教育論を論じているが,その気持ちは十分理解できる.3歳児は観察対象としては最高の題材である.現在,彼女の脳は,基盤作りに大忙しだろう.脳は急速に発達している最中だ.様々なことを体験しているが,大人になってほとんど記憶が残らないのは,このときの経験が脳そのものの器作りに利用されているからではなかろうか.器が出来ていなければ,中に記憶を蓄積することはできない.彼女が「なぜ?」「どうして?」を連発するのも,新しい知識(記憶)で脳の扱える領域を開拓しているからだろう.

彼女の言語能力を観察するのも興味深い.一見,大人達といっぱしの会話をしているように見える.しかし,理解度は60%から70%ほどだろう.試しに話した内容を確認してみると,「えへへ」と笑って分からなかったことを白状するときがある.数字は1から30ぐらいまでは数えられるが,その数字の持つ意味はまだ理解していないようだ.大人の真似をして数字を述べるにすぎないのだ.その証拠に,メジャーで彼女の身長を測ってあげたら,自分でも計りたがり,試しに私の身長を測らせてみたらのだが,メジャーの数字をみて「6時30分!」と答えるからだ.(どこかで「6時30分」という言葉を覚えたのだろう)

彼女はひたすら大人の真似をしようとする.これは幼児の本能だろう.この真似事を通して、人間の動作を学び,社会を生きていくための知恵を身につけていくのだ.この意味で,「おままごと」は,まさに子供たちの真剣勝負なのだ.大人は働くのが仕事だが,子供は遊ぶのが仕事なのである.

姪っ子を見ていると,「子供のしつけ」ということを考える.まず連想するのは「あれをしちゃだめ!」「やめなさい!」と叱る行為だ.このような叱る行為は,子供をコントロールしたいという大人の都合による欲求,または,子供の危険を案じて行われていると思われる.

街中の子連れを観察すると,多くは前者の大人の都合による叱り方が多いようだ.親は子育てに疲れて息抜きを求めているのかもしれない.

先日、三宮のスターバックスへ行ったのだが、そこで子供を連れた母親を見つけた.母親は少しお洒落して街に出て、子育ての息抜きがしたかったのかもしれない(そこには旦那の姿は見えなかった).しかし突然、子供が泣き始めた.カフェでボーっとするのに子供は退屈したのだ。母親は思わず「静かにしなさい!」とどなる.声がカフェに響いた.残念ながら,子供は親の思い通りにはならなかった.挑戦するかのように、さらに駄々をこねはじめた。この風景をみて、大人も含めて,人間はコントロールすることは出来ないのだな、と思った.洗脳でもしないかぎり.

では,子供と付き合っていくにはどのような良い方法があるのだろうか.私が姪っ子を観察する限り,一緒に家事をするのが良いと感じる.子供は親の注意を引きたい.そのためだけに泣き叫ぶことも多々あるだろう.しかし,もし一緒に家事をするとなると,子供は「自分は頼りにされている」と感じ,親が自分のことを見ていてくれることに満足するのだ.この手伝いは子供たちに「家族の一員」という意識を植えつけ,子供たちに高揚感をもたらす.上から見下す関係ではなく、運命共同体となるのだ.3歳児では仕事の「好き/嫌い」という概念はまだない.遊びと同じぐらいの情熱を持って,嬉々として家事にとりかかるだろう.

もし子供が仕事を上手くこなせれば親としては一石二鳥.子供は精神的に成長するし,家事の負担も減るのだから.ただ惜しいかな,3歳児ではまだ「きれい」に家事をすることができない.情熱は十分すぎるほどあるのだが,雑巾がけは「雑巾で床を拭いて綺麗にする」ことだという意味はなかなか理解してくれないのであった...(数字は言えるが意味が分からないことと同じだ)